月の木漏れ陽亭
いらっしゃいませ☆  リニューアル!詩作やら日記がメインです。趣味や日々のあれこれを語っています☆  みなさま、どうぞごゆっくりとしていって下さいませww
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
希望を胸に歩き出す
   新撰組⑥~ 土方 歳三を語りたい!



 久しぶりに更新 




  武者修行 

 剣術修行するという目標が見つかったものの、農民の子である

 歳三としては、やはり家業の農作業を手伝わなければいけなかっ

 た。しかし、歳三はどうしてもそれが嫌でなんとかして免れた

 いと考えていた。そこで家伝の薬の販売をすることに思いたつ。

 土方家では、「石田散薬」という薬を副業として製造販売して

 おり、これを売り歩く代わりに農作業を免除してもらおうと考

 えたのだ。

 この薬は、骨つぎ、打ち身、捻挫などに効く飲み薬で、1日一

 包みを酒と一緒に飲むとたちどころに治るといわれていた。原

 料は近くの浅川の河原に生えている牛額草(ぎゅうがくそう)

 という草で、土用の丑の日に採集し天日に干して、黒焼きにし

 て粉末状にしたものだった。効能は、正直現代から見れば妖し

 いものだが、土方家ではこれを家伝薬としていた。兄・喜六も

 売り歩くことに賛成し、歳三は農作業を免れることになった。

 許しを得た歳三は、石田散薬をつづらに入れて背負い、その頃

 土方家に出入りしていた近所の酒屋のじいさんを供に連れて行

 商に出た。行商といっても飛び込み営業ばかりというものでも

 なく、甲府や伊勢原、川越方面などに得意先もあり、歳三はそ

 れらを一軒一軒歩いて回った。

 ただし、売り歩くだけではなく、つづらの上にはいつも必ず剣

 術道具を一式くくりつけて、行く先々に剣術道場を見つけては

 飛び込んで他流試合を申し込んでいた。





 本日はここまでです。

 まるで道場破りのような真似事をしていたんですね 

 あまり歳三のことを知らない人は、近藤の道場に居たと思って

 るようですが、彼の道場に出入りするのはもう少し後になりま

 す。こうして、色んな道場で自分の腕を試しながら剣術勉強を

 していたので、型はどうしても荒かっただろうと推察できます。

 まさに武者修行ですね 


    では、またの機会に。















   ※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲「明日への

    マーチ」の歌詞の一節から拝借しています  


スポンサーサイト
偉大なる友よ
   新撰組⑤~土方 歳三を語りたい!



  コツコツ書いている土方さん録です 






    運命の出会い


 天然理心流(てんねんりしんりゅう)剣術に入門した

 歳三はここで終生の友となる近藤勇と出会う。

 この時近藤はまだ島崎勝太(かつた)と名乗っていた。

 近藤は、天然理心流の近藤周助の養子である。

 彼も歳三と同じく農民の出で、多摩郡(ごおり)上石

 原村の宮川家に生まれた。幼名は、宮川勝五郎(かつ

 ごろう)といった。天保(てんぽう)5年(1834)に誕

 生。歳三よりひとつ歳が上である。近藤も実家に出稽古

 で来ていた近藤周助に15歳で入門し、翌年その才能に惚

 れこんだ周助から流派の後継者として養子に迎えられて

 いた。この当初では、近藤姓を使わずに、周助の旧姓を

 とって島崎勝太と名乗っていた。

 勝太こと勇(いさみ)も、養父周助に従ってよく佐藤道

 場に出稽古に来ていたから、二人が出逢ったのは、歳三

 が入門した嘉永(かえい)4年(1851)中のことと思わ

 れる。その時歳三は17歳。勇は18歳であった。同年輩の

 二人はすぐに意気投合したと言われ、「両雄士伝(りょ

 うゆうしでん)」では歳三について、「昌宜(まさよし)

 ←勇のこと)と意気投合し、親交すること兄弟のごとし」

 と記されている。また、「両雄士伝補遺(ほい)」には、

 「昌宜と兄弟の義を結び・・・」と書かれてあり、いわ

 ゆる義兄弟の契りを二人はかわしていた。

 ちなみに義兄弟とは、中国の歴史書「三国志」の中で、

 劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)

 の三人が志を同じくするものとして兄弟の契りを結んだ

 という故事によっている。勇はこの三国志を好んでいた

 ことから、劉備らの英雄にあやかろうとしたのだろう。

 これ以降、歳三と勇は強い絆で結ばれてゆく。






 ようやく近藤勇、登場です 

 二人は本当の兄弟以上の兄弟だったという。

 よくヤクザ映画とかにも登場する「義兄弟」だ。

 勇が死ぬまで続いた強い絆。

 男の友情を感じる。

 こんな時代だったからこそ、その絆は二人の中で

 は唯一絶対的なものだったのだろう。

 裏切らない、信頼し通すことは簡単にみえて難し

 い。今の時代でさえ親友と呼べる人間と一生深い

 絆で結ばれたままなんて篤い友情はなかなかない。

 時勢があやふやな幕末で、裏切りや殺戮の時代の

 中で二人の繋がりが切れなかったことは純粋にす

 ごいことだと思われる。

 なにしろ二人は新撰組を作った人物たちだ。敵を

 斬ったことよりも仲間の粛清を行ったことの方が

 多い組の中で、最後までお互いを信じ、支え、裏

 切らなかった二人の絆。

 大らかで人望があり、豪放であった勇と、繊細で頭

 がよくまっすぐな性格の歳三は馬が合ったのかも

 知れない。

 また次回。













  ※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲

   「PRIDEの唄」の歌詞の一節から拝借して

                います  











  にほんブログ村 ポエムブログへにほんブログ村 ポエムブログ 切ない詩へ にほんブログ村 ポエムブログ 悲哀詩へ
 にほんブログ村 ポエムブログ 吟遊詩人へ ブログランキング・にほんブログ村へ 






 
夢はいずこ
   新撰組④~土方 歳三を語りたい!


 随分とストップしてました 

 続きをアップします。

 ちなみに前回までアップしたものは、カテゴリーの

 「千代に新撰組」にしまってあります 






   武士になる夢

 歳三の二度の商家奉公がつとまらなかったのは、

 本気で商人になる気がなかったことが大きかった。

 といって、農業に従事する気もなおさらない。実は

 歳三には武士になるという大きな目標があったのだ。

 「われ壮年武人となって名を天下にあげん」という

 のが、少年の頃からの彼の口癖であった。

 武士になるといっても、当時の社会では、農民が

 武士になることなどほとんど不可能なことだった。

 それでも歳三は、夢が実現することを信じて、実家の

 庭で「矢竹(やだけ)」という竹の一種を栽培していた

 という。これは弓矢の矢を作るのに適した竹で、将来

 武士になれた時に、自家製の矢を作るつもりであった

 ためという。歳三の武士に対する憧れが、どれほど強い

 ものであったかを知ることができる話だ。

 だが、憧れているだけでは武士にはなれない。そこで

 歳三は剣術の修行を始めた。幸いに義兄の佐藤彦五郎

 (姉・のぶの亭主)の自宅には道場が設けられており、

 江戸市ヶ谷の近藤周助(近藤勇の養子先の義父)という

 剣客が、ときおり出稽古にやってきていた。流派は天然

 理心流(てんねんりしんりゅう)といい、形式を飾らない

 実戦的な剣術だった。この天然理心流に歳三は17歳で入門する。

 多摩郡(こおり)小野路村(おのじむら)の名主で、歳三と

 親しかった小島鹿之助(しかのすけ)が著した「両雄士伝」

 (りょうゆうしでん)には、「土方義豊(よしとよ)、通称は

 歳三(中略)、はじめ十七、邦武(くにたけ。周助のこと)の

 門に入り、いまだいくばくならずして技、大いに進む」と

 記されている。歳三にとっては、商家での奉公などよりも、

 剣術の方がよほど性に合っていたのだろう。





 歳三は少年だった頃から武士への憧れを持っていた。

 姉が佐藤彦五郎に嫁いだ縁で、道場に入門したわけだけど、

 時期的に少し遅いような気がする。もっとも家族の意向で

 商家に奉公に出されていたわけだから仕方ないけれど。

 でも剣を習うにはいささか遅いだろう 刀

 でも、執念だね。ここまでいくと。強い精神力、願う気持ち

 が強かったのだろう。

 ここでは名前は出ていないけれど、盟友・近藤勇とは入門

 した際に出会った。歳三が17歳。勇が18歳。

 歳三が植えたといわれる矢竹はちゃんと存在している。

 土方歳三資料館に植えられている toshi

 ではまた次回 













 ※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲「Dear Boys」から

拝借しています 








        にほんブログ村 ポエムブログ 吟遊詩人へ
にほんブログ村にほんブログ村 ポエムブログへ
にほんブログ村にほんブログ村 ポエムブログ 悲哀詩へ
にほんブログ村 にほんブログ村 ポエムブログ 切ない詩へ
にほんブログ村
ためいきのベルが鳴るとき
   新撰組③~土方 歳三を語りたい!


 久し振りに続きを更新したいと思います。

 以前に書いたのは、はるか前ですけど (汗)




   商人の道を断念


 いとう松坂屋での奉公に失敗して多摩に帰った歳三は、自然、

 実家には居づらくなり、姉のぶの嫁ぎ先である日野宿の佐藤

 家に入り浸るようになった。もう一人の姉、周(しゅう)を早くに

 亡くしてる歳三にとって、のぶは精神的に甘えることのできる

 唯一の存在であった。夫の彦五郎も話のわかる人物で、歳三

 は実家よりもこの佐藤家の方を心やすく感じていたようだ。その

 後、雑用などをこなして日々を送っていたが、いつまでもそうし

 てはいられないと感じた歳三は嘉永(かえい)4年(1851)、17歳

 になると、再び江戸に奉公に出た。

 今度の奉公先は、大伝馬町の呉服店。店名は解っていない。

 17歳という年齢は、すでに丁稚(でっち)をつとめるには遅すぎる

 年齢であったが、土方家や佐藤家から特別に口をきいてもらった

 だろうと推測される。しかし、またしても奉公はつとまらなかった。

 今度は、店の女中と関係してしまったようだ。

 歳三は「眉目清秀(せいしゅう)にしてすこぶる美男子たり」(両雄

 志伝補遺より)といわれた二枚目で、身長も当時にしては高い方

 の五尺五寸(約167cm)あったから、女性によくもてた。呉服店で

 働く女性たちもほうっておかなかったのだろうが、義兄彦五郎から、

 そんな身元もわからぬ女をと猛反対され、女中との関係を清算した。

 ただし、このことが原因で店の方はクビになってしまい、結局商人

 の道に進むことを諦めざるをえなくなった。






 歳三はかなりもてたようです。なにしろ美男子ですから! z

 実物像が今も残ってますが、今居ても相当の美男子です。若い頃は

 特に引き立っていたのでしょうね・・・ x

 一説には、この時関係した女中は身篭ったとか、そうでなかったとか。

 実際はどうだったのか解りませんが。しかもどうやら相手は年上であっ

 た模様。

 17歳という年齢では奉公というのはあまりにも遅すぎるのが通例。

 普通は丁稚というと子供の頃からですから さとと-幼稚園男の子

 歳三にとったら、とる道は3つ。

 1 兄喜六(きろく)のもとで、実家で農業をする。

 2 再度、奉公に出て商人になる。

 3 兄大作のように養子になる。


 結局歳三は奉公に出て商人になる道をまたもや選択する訳です

 が、それも女性問題でフイにしてしまう。

 もてすぎてしまうというのも困り者ですね (笑)

 特に今の時代よりも当時はさらに男女仲は緩やかな時勢でした

 からね。

 当時の男性としての平均背丈はおおよそ158cmだったそうです。

 それを踏まえると、歳三は平均以上。かなり背が高いという見方

 になります。

 さあ、商人を断念した歳三。これからどうするのか。

 年齢ももう17歳。もはや農業をするしかないのか?

 それとも養子になってしまうのか?

 それは次回に続きます ヅラ










  ※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲「ためいきの

   ベルが鳴るとき」から拝借しています  リラックマ




 にほんブログ村 ポエムブログへにほんブログ村 ポエムブログ 切ない詩へ にほんブログ村 ポエムブログ 悲哀詩へ
 にほんブログ村 ポエムブログ 吟遊詩人へ ブログランキング・にほんブログ村へ 
人気ブログランキングへ  ←ポチッとよろしくね 絵文字名を入力してください



       ← カワイイ拍手 うさ

PRIDEの唄
  新撰組②~土方 歳三を語りたい!


   前回の続きです。土方さんの生まれ、生い立ちなどを紹介

   したので、今日はその続き・・・





  輪切りオレンジ 奉公 輪切りオレンジ

 当時の社会では、武士でも農民でも長男以外の者の立場は

 きわめて軽かった。家を継ぐことができるのは長男だけで、次

 男以下の者は何らかの形で身を立てない限り、一生を厄介者

 として過ごさなければならない。歳三の場合も、兄大作のよう

 に他家の養子に入るか、農業を捨てて工業、商業に転ずるし

 か方法がなかった。

 歳三が選んだのは商人の道で、弘化(こうか)2年、11才の時

 に江戸上野広小路の呉服店「いとう松坂屋」に丁稚奉公に出る

 ことになった。いとう松坂屋は尾張(おわり)のいとう呉服店が江

 戸進出にあたって旧松坂屋を吸収合併してできた店で、上野屈

 指の豪商だった。

 いとう松坂屋のような有名店に奉公するという、商人としての恵ま

 れたスタートをきった歳三だったが、残念ながら長続きはしなかった。

 丁稚の仕事は、初めの頃は店の掃除や主人のお供、使い走りくら

 いしかさせてもらえない。給金というものはなく、小遣いもほとんど

 与えられることはない。そんな生活が何年も続き、やがて手代に昇格

 したとしても、更に番頭になり、独立するまでには長い年月が必要

 だった。その最初の段階で、歳三は失敗してしまったのだ。

 入店して1年も経たない内のある日、ささいなことから番頭の怒りを

 かい、拳骨で頭を殴られた。負けん気の強い歳三は番頭に食ってかか

 り、そのまま店を飛び出して、実家に帰ってしまったという。兄喜六(き

 ろく)がなだめたが、歳三は聞かず、結局二度と店に戻ることはなかった。






  もし、歳三がこのまま松坂屋にいたら後の新撰組はなかっただろうなあ。

  当時の長男以下の扱いは相当長いこと続きましたよね。風習なのでしょう。

  今でもごく一部ではあるのでしょうし。

  それにしても、一体歳三はどんなことをして番頭に怒られたのだろう・・(笑)

  この辺は小説家さんの想像などで色んなエピソードが語られている場面

  でもありますね。

  負けん気が強く、意地っぱり(笑)

  子供ながらも、頑固な所があった歳三くん。きっとこの当りから武士になり

  たいという気持ちがムクムク育ち始めたのではないか、と推測します。




     今日はここまで。





  ※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲「PRIDEの唄」

   から拝借しています  夜



 にほんブログ村 ポエムブログへにほんブログ村 ポエムブログ 切ない詩へ にほんブログ村 ポエムブログ 悲哀詩へ
 にほんブログ村 ポエムブログ 吟遊詩人へ ブログランキング・にほんブログ村へ 
人気ブログランキングへ  ←ポチッとよろしくね 絵文字名を入力してください

Copyright © 2005 月の木漏れ陽亭. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。