月の木漏れ陽亭
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霧のベールにむせぶ影
   歴史はミステリー~徳川家康影武者説編 ③ 




     謎めく 真夜中の仮葬儀

 大阪城にはまだ豊臣秀頼と淀の君親子が居た。ここで「家康

 死す」の報が流れてしまったら、味方の士気が下がってしまう。

 そこで、重臣の本多正純らは善後策を討議して、徳川権勢が

 盤石となるまで影武者を立てるという結論を出した。

 将軍職はすでに嫡男の秀忠になっていたが、実験は依然とし

 て家康が握っていたがためである。

 影武者として指名されたのは、家康から深く信頼され、孫娘

 を妻に迎えていた小笠原秀政。問題は、秀政の存在をどうやっ

 て消すかであった。その点、夏の陣に参戦していた秀政の長

 男である忠脩(ただなが)は戦死し、次男の忠真も深手を負

 い意識不明の状態となっていた。秀政が討ち死にしたとして

 も不思議はない。

 条件は整い、さっそく戦死の知らせが伝えられ、秀政は家康

 の影武者へとなった。

 これが、家康死亡説の概要である。

 夏の陣から、秀忠が家康の権限を掌握して幕府体制が固まっ

 た直後までに起こった一連の出来事は、この説を肯ける説得

 力を持っているという。

    ① 秀政が死んだという知らせを受けたあと、国元か

      ら秀政の肖像画や手紙などの記録が一切消失した。

    ② 夏の陣で戦功がなかった次男の忠真に、小倉藩15

      万石が与えられた。

    ③ 夏の陣の翌年、家康は鯛のてんぷらを食して謎の

      死を遂げた。

    ④ 影武者の擁立に奔走したと思われる家臣の榊原康

      勝は、26歳の若さで死亡した。

 また、家康が謎の死を遂げた際にその遺体を雨が降りしきる

 真夜中に墓所まで運び、仮葬儀を行った点も不自然である。

 仮葬儀に立ち会ったのは、わずか11名だけなのもおかしな点

 であろう。さらに、影武者擁立を強く推したと思われる本多

 正純は、1622(元和8)年、身に覚えのない罪状を秀忠に突き

 つけられて失脚、出羽国横手に流罪とされている。

 家康からの重臣でもあった正純に対するこの仕打ちは、影武

 者擁立を快く思っていなかった秀忠の復讐だったのではない

 かともいわれている。

 家康の遺体は、一周忌を経たあとに久能山から日光に改葬さ

 れたことになっている。これは、南宗寺から移すための偽装

 であったのか・・・。その答えは想像するしかない。







 という訳で、以上が家康影武者説の現在考えられている説だ

 そうです。実際にはもちろん分からない訳だけど、みなさん

 はどう思われたでしょうか。

 同じ影武者説で有名な武田信玄しかり、家康のその時の立場

 を考えれば、その死を隠しせざるをおえなかった重臣たちの

 気持ちは分からないでもない。なにしろ、天下分け目の大戦

 の最中だったわけだから。

 しかし、それにしても。家康の影武者として選ばれたのが孫

 娘の婿様だとは・・・。どんな人物だったのだろう。それも

 またちょっと調べてみたいものだ。

 まったくもって、歴史はミステリー。















  ※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲「慕情」

   の歌詞の一節から拝借しています  











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秘められたTruth
   歴史はミステリー~徳川家康影武者説編 ②



     ※前回の続きです。





  女の子 語り継がれている影武者伝説 女の子

 南宗寺の坐雲亭(ざうんてい)という建物の前には、次のような

 言葉が書かれている。「山内最古の建物。下層は茶席。元和九年

 (1623)七月徳川秀忠、同八月家光の、両将軍の御成りの旨を記

 した板がかかっている。この両将軍の御成りや東照宮が祀られて

 ることなどによって、家康が後藤又兵衛の槍に刺され、南宗寺開

 山堂下に埋葬されていたという伝説が残った。墓は今も開山堂下

 に安置されている」

 伝説によれば、この南宗寺に埋葬されていたのは、1615年の大坂

 夏の陣で死亡した家康の遺体だという。

 天下分け目といわれた関が原の戦い以降、天下統一の足固めをし

 てきた家康は、1614年、10万余の大軍で大阪城を攻めるが、難攻

 不落の名城に苦戦を強いられる。そして、豊臣軍の先頭に立った

 真田信繁(幸村)の奮戦によって、休戦を余儀なくされた(大坂

 冬の陣)。

 この約半年後の大坂夏の陣では、家康が謀略によって天守閣を丸

 裸にしてしまったため、緒戦から勝敗はほぼ決定していた。とこ

 ろがここでも、幸村は活躍を見せ、3000の手勢で松平忠直率いる

 1万3000を突破し、家康本陣へと次々に突入させる。本陣は総崩れ

 となり、死を覚悟した家康は切腹を何度も口走ったという記憶が

 残されているという。

 実はこの乱戦時、幸村に深手を負わされた家康は、葬儀の行列の

 棺に入って戦場を脱出しようとしたが、これを怪しんだ後藤又兵

 衛に棺を槍で突かれ、これが致命傷となり、南宗寺で死亡。その

 亡骸は密かに埋葬された。という異説が残されている。







 かの武田信玄公も死んだことを伏せていたことは実証済みだし、

 仮にこの時点で家康が殺されていたと言われても、むしろそう

 だったのかもという気もしてくる。

 伝説にしては結構具体的な内容だし。可能性としては結構高い

 かも知れない。謎めく死の事実は、はてさて明らかになるのだ

 ろうか。ひじょうに興味深い伝説のひとつですね。















※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲「ニッポンの

 ヒール」の歌詞の一節から拝借しています 
茶番通りに越したら亡霊
   歴史はミステリー~ 徳川家康影武者説編 ①


 誰でもが知っている戦国時代を終結し、江戸幕府を

 築きあげた人物、徳川家康。

 未だ色んな謎も多いですよね。その中でも特に言わ

 れ続けている説は、なんといっても影武者だったので

 はないかという疑問。

 家康は75歳まで生きて、てんぷらにあたって病死し

 たと言われています。でも本当は、大阪夏の陣です

 でに討ち死にしていたのではないか、という説が存在

 している。

 果たして、晩年の家康は本物だったのだろうか?




 1616年、江戸幕府の基礎を築いた家康が没すると、

 遺言に従って、遺体はまず静岡市の久能(くのう)山

 に葬られ、一周忌を経てから日光に改装された。生前

 から家康は、中国の墓相学にのっとった遺体を安置

 する「祀り墓」(日光)と仏事を執り行う「詣で墓」(久能

 山)の両墓制を望んでいたという。それが久能山東照

 宮と日光東照宮である。

 日光が選ばれた理由は、江戸のほぼ真北にあたり、

 江戸から見ると墓が北極星と同軸に座することに由来

 する。東照大権現(とうしょうだいごんげん)という神となっ

 た家康は、不動を象徴する北極星と座標を同じくするこ

 とで、徳川幕府の安泰と恒久的な平和を自らで守ろう

 と考えたという。

 伝えられている史実によれば、家康の墓はこの二箇所。

 ところが、実は家康の名が刻まれる墓がもう一つ存在

 する。大阪府堺市の南宗寺(なんしゅうじ)である。

 南宗寺は沢庵和尚が住職を務め、千利休が修行を積

 んだことでも知られている寺で、生前の家康も上洛の際

 には足を延ばして何度か訪れたことがあるという。この

 南宗寺の境内を進んだところに、「徳川家康の墓」と刻

 まれた屋根付きの大きな墓石がそびえている。南宗寺

 は「堺東照宮」とも呼ばれている。

 そしてこの墓前に、1623年に家康の孫である家光が第

 三代将軍となった時に、家光とその父・秀忠が前後して

 参詣し、将軍任官を報告したという記録が残っている。

 また、明治初期には幕臣で剣聖とたたえられていた山岡

 鉄舟が南宗寺を訪れ、「無銘の塔 家康諾す」と刻んだ

 石碑を建てている。





 長くなってしまうので、ひとまずここで切ります。

 家康が影武者だったという説は結構有名ですよね。

 武将の中ではあと武田信玄も有名だけど。

 そういえばかなり昔、ジャンプか何かで家康の影武者

 が主人公の漫画なかったっけ?

 信玄にしろ家康にしろあまりにも大きな存在であった

 がため、その均衡を崩さないがために、と考えると影

 武者に真実味も増してくるような気がする。

 なにせ、均衡が崩れるだけでなく、仲間内でも叛乱や

 裏切り、それに伴う戦が勃発、更にはお家断絶なんて

 ことも十分に考えられるのだから。


        次回に続く。















※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲「古戦場で濡れん

 坊は昭和のHERO」の歌詞の一節から拝借しています 


私の心みたいなシルエット
   歴史はミステリー ⑤~検証ファイル・聖徳太子編



 長らく綴っている太子についてのこのコーナーも

 この回で終わりです。

 では前回の続きから。

 ちなみに前回までの記事は、「日本史蝉しぐれ」の

 カテゴリーに入っています。




   「太子の肖像は本人を描いたものか? 」


  通説 

  1930年、100円札に初めて登場し、1957年には

  5000円札、翌年には1万円札に肖像が載った。

  この肖像は、もともと法隆寺に所蔵され、明治時

  代に皇室に寄贈された「唐本御影(とうほんみえ

  い)という肖像画をもとに作成されたものである。

  中央に聖徳太子、右に殖栗王(えぐりのみこ)、

  左に山背大兄王(やましろのおおえのみこ)が描

  かれているとされるこの絵は、法隆寺の伝承では

  百済の王子・阿佐太子(あさだいし)の作といわれ

  「日本書紀」には597年に王子が渡来したと記され

  ている。この絵は、太子のイメージを確立させたと

  いってもいいだろう。

  また、太子の実在を有力する証拠として、中宮寺

  所蔵の「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」が

  ある。これは、現存する日本最古の刺繍であり、

  622年、太子の妻・橘大郎女(たちばなのおおいら

  つめ)が、亡くなった太子を偲ぶために推古天皇に

  願い出て、作らせたものだ。金や紅で彩られた鳳凰、

  菩薩などが描かれた天寿国に記された文には、太

  子が生前口にした「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是

  真(ゆいぶつぜしん)」の文字を確認することができる。

  この刺繍は、国宝にも指定されている貴重なものだ。





  検証 

  1982年、東京大学史科編纂所所長の今枝氏は、なじ

  み深い聖徳太子像のもととなった「唐本御影」について、

  「もともとは川原寺にあったもので、太子を描いたとする

  確率は低い」という説を発表した。

  同説は、学会で波紋を呼び、説は一部からは否定され

  ているが、大阪外国語大学の武田教授らの研究によっ

  て肖像画は8世紀半ばに描かれたものであることがほぼ

  確定している。描かれている冠や着衣、持っている笏(しゃ

  く)が律令国家が成立してからのものであり、太子の時代

  にはなかったことが判明。太子の死後、少なくとも100年

  以上経ってから描かれたものであることが定説になった。

  一方、中宮寺の天寿国繍帳はどうだろうか。現在は断片

  と鎌倉時代に複製されたものしか残っていないが、もともと

  記されていた銘文は「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうと

  くほうおうていせつ)」に記録され、この刺繍が作られたエピ

  ソードが残されていた。そこで、これこそが太子実在の動か

  ぬ証拠とされていた。ところが、銘文の再検証によって、今

  では偽作説が有力になりつつあるらしい。

  中部大学の大山教授は、当時まだ使われていなかった天皇

  号や和風諡号(しごう)が記されている点を指摘。刺繍は後世

  の作であると主張した。さらに、国文学の金沢氏らは、銘文の

  中の「辛巳十二月廿一癸酉」「明年二月廿二日甲戌」に注目。

  この暦法は中国の「儀鳳暦(ぎほうれき)によるもので、日本に

  伝わってきたのは676~679年であることを明らかにした。太子

  が亡くなったのは622年、推古天皇が亡くなったのは628年であ

  るため、この時代に儀鳳暦が採用されるはずがない。この研究

  によって「天寿国繍帳」は、676年以降に作られたことが判明した

  のである。







 じゃあ、本当の聖徳太子ってどんな人だったのでしょうね。

 あの有名な顔は誰なのか・・・

 勝手に太子像を作り出しただけだったのか・・・

 顔が違うと今更言われても、なんだかしっくりこないというか、

 ある意味、ショックを受けますよね。だって、長い間お札とし

 ても見慣れてきたのだもの。

 今の研究はすごいけど、ある意味恐くもある。いや、神秘の

 ベールがはがれて真実が判ることは嬉しいし、楽しいけれど。

 でも、こうも植え付けられてきた観念と違ってくると、太子像が

 どんどんかけ離れていってしまうような・・・

 







  ※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲「恋は、ご多忙

   申し上げます」の歌詞の一節から拝借しています  かぐや


 
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まちがいだらけの妄想タイプ 2
   歴史はミステリー ④~検証ファイル・聖徳太子編


 通説と検証で綴っている歴史ミステリー、続きです。

 いったい、この聖徳太子編、いつ終わるんだろっ (汗)







   「法隆寺を創建したのは太子だったのか? 」


 通説

  605年、聖徳太子は飛鳥から斑鳩宮(いかるがのみや)に居を

  移し、蘇我馬子と距離を置きながら政務を行うようになった。

  斑鳩宮とは、太子が601年に造営した宮殿のこと。この直後から

  太子は法隆寺の前身となる斑鳩寺の建立に着手したと伝えられ

  ている。

  607年に完成した斑鳩寺は、670年に焼失してしまうが、711年に

  法隆寺西院として再建され、後に東院が建てられ、現在知られて

  いる法隆寺が完成した。また太子は、615年「三経義疏(さんぎょう

  ぎしょ)」を著している。



 検証

  法隆寺は太子の仏教への帰依を象徴する建造物として知られて

  いるが、「日本書紀」には太子が法隆寺を創建したという記述はない。

  太子と法隆寺を結ぶ有力な史料とされているのは、創建の由来が記

  された法隆寺金堂薬師像の光背銘である。ところが、1900年代になっ

  てからの研究や調査によって、その信憑性が問われるようになった。

  近年では、光背銘が記されたのは607年よりずっと後(奈良時代)だと

  する説が主流になっている。

  その根拠は、銘文の文体や書体が後世のものである、推古朝になかっ

  た「天皇」という名称が使われている、太子が「聖王」と呼ばれたのは

  没後であるが銘文にその記述が見られる、薬師像そのものの造像形

  式は623年以降のものである、薬師信仰は推古朝では栄えていなかっ

  た、などである。また斑鳩寺と法隆寺は同じ寺だったのか、という根本

  的な疑問もある。「日本書紀」には、「天智天皇8年冬、斑鳩寺に災(ひ

  つ)けり」「天智天皇9年4月30日、法隆寺に災けり」と記されているが、

  同じ寺が立て続けに火災にあったのであれば、その名称を違えて記述

  するのは不自然だという指摘である。

  それでは、太子が著したという「三経義疏」はどうだろうか。実はこの書

  にも多くの疑問がある。中でも決定的なのは、太子によるものとされる

  「勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)」は、中国の敦煌(とんこう)から出

  土した「勝鬘経本義」と7割が同文で、6世紀後半の中国北朝でつくられた

  と断定されたという事実である。また、「維摩経(ゆいまきょう)」で引用して

  いる中国の書物「百行」は、唐代に成立した「百行書」である可能性が濃厚

  という。つまり、両書は太子が生きた時代に著すことはできなかったのでは

  ないか・・・という指摘がなされている。






 さあ、今回の検証はいかがだったでしょう。

 こうして聖徳太子の痕跡を緻密に探ってゆくと、案外太子は一般人?

 そんな感じですね。

 前回で記したように、冠位十二階、憲法十七条も違うのではないかとなって

 くると、この法隆寺も怪しい。

 それにしても近世の調査というのは本当に優れていて、怖いくらいですね。

 というか、今まで習ってきた歴史はどうなるの? ってカンジだけど (笑)

 本日のファイルはここまでです。また次回。






     チェリンボ みなさまへ チェリンボ



    みなさまへ 

 いつも遊びに来てくれて有り難うございます。

 何度か記事の追記として書いていますが、今

 私は介護の資格を取るため勉強をしております。

 そのため、ただいまブログ巡りはお休みさせて

 頂いております。すみません・・・

 コメントなど頂いておきながら、みなさんの所へ

 行けないのはひじょうに心苦しく、また残念なこ

 となのですが、どうも自分はルーズな性格でし

 て (汗)。一度、ブログ巡りをしてしまうと、時間

 関係なくやってしまうので、そのせいで勉強がおっ

 くうに感じてしまったり、面倒臭くなって諦めてし

 まったりと、とにかく意思が弱いので (泣)、泣く

 泣くブログ巡りは試験に合格するまではおあづけ

 にしました。

 更新はたまに、気分転換にやっております。

 とりあえずは合格するまでは、この状態を続けて

 ゆく予定なので、みなさまの所に遊びに行けず

 にすみません。。

 今後とも宜しくお願いします。

 残暑が厳しいです。みなさま、インフルエンザは

 もちろんのこと、夏バテ、風邪などには注意して

 暑さを乗り越えて下さいませ。

 まずはご挨拶まで。



                        冬灯  くじら








  ※このカテゴリのタイトル名は、サザンの曲「Let's Take a Chanoe」の

    歌詞の一節から拝借しています  †XmasOrns†飴の杖(*゜▽゜)ノ




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